【私の偏愛本】『星の王子さま』サン=テグジュペリ

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「私の偏愛本」というカテゴリーで、好きな本について好き勝手な感想を書いているページである。

今回はサン=テグジュペリの『星の王子さま』を取りあげる。

『星の王子さま』はフランスの飛行士で作家のサン=テグジュペリが1943年に発表した小説。Wikipediaからの情報で恐縮だが、200以上の国と地域の言葉に翻訳されており、全世界での総販売部数1億5千万冊を超えているそうである。もはや説明不要の名作といえる。

物語の冒頭、砂漠に不時着した飛行士の主人公のもとへ星の王子さまが現れ、唐突にヒツジの絵を描くようにせがんでくる。ヒツジの絵なんて描けないと思った主人公は、自分に唯一描くことのできる「ボアに飲みこまれたゾウ」の絵を描いてみせる。

初めて描いた6歳のころ、当時の大人たちに帽子の絵だとしか言ってもらえなかった絵を見て、王子さまはこう言う。

「ちがうちがう! ボアに飲まれたゾウなんていらないよ」

『星の王子さま』新潮文庫 河野万里子訳

物語が始まってすぐのこのシーンを読んだとき、私は「この小説は好きな作品のひとつになるだろうな」と直感した。私は何度もこの小説を再読しているが、本を開いてすぐに大好きなシーンがやってくるので、とても幸福な読者だと思う。

最初の絵にまつわるエピソードからしてわかるように、この物語には大人と子どもの対立構造がある。大人が忘れてしまった人生において大切なことを子どもは知っている、というような構図が読み取れるわけだが、しかし「子ども」の側である王子さまとて、最初から大切なことをわかっているわけではない。

「ぼくはあのころ、なんにもわかっていなかった! ことばじゃなくて、してくれたことで、あの花を見るべきだった」

同上

故郷の星の愛するバラと喧嘩したことを振り返り、王子さまはこう嘆く。そして生まれた星を飛び出し、さまざまな星を巡り、旅の最後に地球にたどり着き、一匹のキツネに出会って絆を結ぶことで、ようやくいちばん大切なことに気づく。

初読のときには、「子ども」である王子さまが、子どもだからこそ持っている真理を見抜く心をもって読者を説得する、そんな形式の物語だと無意識のうちに思いこんでいたが、読み返してみると、王子さまはあきらかに最初から完成した存在などではなく、旅を通して成長をとげていっているのだった。

サン=テグジュペリは、この話を子ども向けに書かれたものだと言っている。しかしそれは一種の方便であって、実際には子どもの心を忘れてしまった大人に向けて書いている、と当初私は解釈していた。たしかにそういう物語でもあるとは思う。しかし、王子さまの成長の物語として読んでみると、やはりまさしく子どものために書かれた小説だともいえると、いまはとらえ直している。まあ、ようするに、あらゆる人に向けての小説なのだ。

物語の最後に、王子さまは主人公のもとを去っていく。本当に故郷の星に還ることができたのか、それはわからない。いずれにせよ、主人公は王子さまと別れなければならなかった。

王子さまが、主人公ひいてはサン=テグジュペリ自身の子ども時代の象徴だとすれば、最後の別離は、飛行士が現実の大人の世界へ戻っていかなければならないことを描いているのだろう。それはきっと少し悲しいことだが、王子さまが語ったように、夜空の星を見上げれば、主人公は彼の笑い声を耳にすることができるはずだ。それはつまり、大人になっても子どもの心を忘れずにいることはできる、ということなのだと思う。