「人を選ぶ作品」という表現はまったく謎である

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小説、漫画、映画、アニメ、ゲームなどの娯楽作品のレビューに、「人を選ぶ作品です」と書かれているのをよく目にする。私はこの「人を選ぶ作品」という表現に対し以前から疑問を抱いている、というか、はっきり言うと嫌いである。私の場合、比較的頻繁に見るのはAmazonの小説のレビューなので、それを例に「人を選ぶ作品」という言い方について思うことを書きたい。

「人を選ぶ作品」と評される作品にはいろいろなパターンがあるが、小説の場合、まずあげられるのは、内容が陰鬱、後味が悪い、グロテスクな表現がある、といった作品だろう。そういう作品を読んで「嫌いだ」と思うぶんにはまったく問題ないが、レビューでわざわざ「人を選ぶ作品だ」と書く必要などあるのだろうか。

おそらくそれは注意喚起のつもりなのだろう。事実、「こういう描写が苦手な人は気をつけてください」なんて言葉とセットで書かれていることも多い。しかしなぜそんな注意喚起が必要だと思うのか、それがわからない。ネットの小説投稿サイト(たとえば「小説家になろう」)などでも、この手の注意喚起はあたりまえのようにおこわれている。成人向けの作品内容のため、未成年者への配慮で注意をうながす場合はともかく、苦手な作品にうっかり出くわさないための配慮なんて、本当にくだらないと思う。

読者の側にはいわゆる「地雷」を避けたがる人が一定数いるのだろうが、仮に地雷を踏んだって死ぬわけじゃあるまいし、なにをそんなに頑なに避けたがるのか謎である。嫌いなタイプの小説をうっかり読んでしまって嫌な気分になった、そんな経験は私にも腐るほどあるが、それがどうした、としか思わない。そうやって本当に好きだと思える小説との出会いを求めてたくさんの作品を読むのが楽しいのではないか。「当たり」しか入っていないくじを引いたって、おもしろくもなんともない。

地雷を避けたい人のために「人を選ぶ作品です」と注意喚起をうながす人は、「おすすめされたから読んだけど、私には地雷だった」と言われるのを回避したいのかもしれない。しかし作品選びにおいて責任を負うべきは当然読者自身なので、レビューする側がそんな気を使う必要などまったくないだろう。私もブログでいろいろな小説を紹介しているが、それを信じて小説を読んだ人がつまらないと感じたとしてもそれはしかたのないことで、私に責任はないだろうし、まして罪悪感を抱くこともない。私にはいい作品、その人にはそうでもない作品。それだけのことである。

「自分は好きだけど好みが分かれそう」と評者が感じたときにも「人を選ぶ作品」という言葉が使われやすい。なんとなく内容が万人向けではない、という類いの作品はたしかにあるかもしれないが、べつに100人が100人おもしろいと思う作品など存在しないわけで、どんなに万人受けしそうなものであっても嫌いな人は嫌いなのである。「好みが分かれる」のはすべての作品について言えることなのだから、この世のありとあらゆる作品が「人を選ぶ作品」なのだ。したがって、特定の作品についてのみ「人を選ぶ作品」と評価するのはおかしい。程度の問題を軽視するな、と言われそうだが、娯楽作品の好みの問題なんて、べつに軽視してもいいではないかと私は思うのである。

「人を選ぶ作品」という表現を目にするたびに、私は「それくらいで『人を選ぶ』なんて言うな」と思ってしまう。わずかでもだれかがダメージを受けそうなら注意をうながし、自分も他人も「地雷」を踏まないように配慮し、配慮される。そんな世界は気持ち悪い。もちろん表現によって傷ついてしまう人の気持ちを考えなくていい、と言いたいわけではない。食べ物を例にするなら、アレルギーのある人のためにどんな食品が含まれているか表示するのは大事なことだ。しかし「ピーマンが苦手」程度の人のために「ピーマンが入っているから気をつけてね」なんて言う必要はないだろう。ピーマンくらいでがたがた言うな、という気持ちである。

いや、ピーマンが苦手な人のために完璧な配慮がなされる世界のほうがすてきだ、と思う人には、伊藤計劃の『ハーモニー』という小説をおすすめする。